思考実験室:後日談

2017年6月18日「思考実験室」、後日談。椿玲司のモノローグ。

※シナリオのネタバレを含む可能性があります

 

目の前で砕け散る血と肉。黒い手の中で圧縮されるが如く潰されていく病変した臓器。崩れ落ちた肉塊が新しい臓器を得て再び人の形に戻っていく冒涜的な光景。叫ぶことも叶わない不自由な身体の目の前で繰り広げられる暗い病室の悪夢に、耳を通さず脳の神経を直接なぶる満足げな男の声が混ざり合って――

「――!」

は、と目が覚めた。飛び込んできた景色は明るくて、俄に意識が混乱する。目の前に積まれた書類。消毒液のにおい。乱れた自分の呼吸音。心臓の拍動。壁一枚の遠くに生きた人の気配。瞬きをすれば漸く明るさにも慣れてくる。僅かに暖色の混じる白の蛍光灯の光の下には人の居ないデスク、壁に並んだ書類棚に各種ファイルが整然として、壁のホワイトボードには今日の予定が書いてある。椿はそこに書いてあるものへ胡乱げに目を向けた。『13時〜 手術・肝切除・XXX室○○様…』――上に設えられた壁掛け時計は既に17時を回っていた。

「……、……はぁ。」

大きく溜息を吐き、机に腕を預けて項垂れる。医局のデスク周りに人の姿は無く、「情けない」と零した呟きを聞く者は幸いにも居なかった。何が起こったのかと考えるまでもない。第二助手として立ち会った手術の、鮮やかな血の色にどうしようもなく気分が悪くなったのは学生の時以来だ。嫌な予感はここ数日、患者の包帯を変える時の妙に心がざわつく所に感じない訳では無かったが、今日のこれは決定的だった。赤色にフラッシュバックする景色。楽しげな男の声。傍にいた看護師に声を掛けられるまで意識が現実から乖離していることに気付かなかった。酷い冷や汗と立ち眩みに手術室からの退場を促されたのも当然だと、忸怩たる思いが両手で顔を覆う。まだ、手は震えていた。

「…あれは一体何だった?夢…現実?――有り得ない。あんなことは…」

呟きはまるで自分に言い聞かせるようで、けれども意識して有り得ないと繰り返すこと自体が現実からの逃避を肯定しているようにも思えた。知り得てしまった百分の五が思考に割り込む。現実ならざると、心の底から言い切ることは出来なかった。

どれ程そうしていただろう。不意に、胸ポケットに入れた携帯電話が一瞬だけ震えて静まった。取り出して見ると案の定ショートメッセージがロック画面に表示されている。気分はどうかと気遣う同期のメッセージに目を通し、椿はほっと息を吐いて「問題ない」と短い返信を出した。そうして頭を切り替えるように頬を両手で叩いた後、立ち上がって白衣を羽織り直し、持ち場に戻るべく部屋を後にした。

 

日常の平穏が仮初であると気づくまで、あとどれ程の猶予が残されているのだろう。赤い白昼夢も、いつの間にか手放せなくなった黒い装丁の本も。誘う声の不気味な誘惑と喉の渇くような執着の故も、今はまだ悪夢の彼方。それでも物語は始まってしまった。変質した心の行く末は――まだ、誰も知らない。

 

 

2017-06-25. 一部の表現を微調整
2017-06-19. 初稿